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~逆転の種を蒔く~ 第68回NHK杯解説記 井上慶太九段VS糸谷哲郎八段(後編)

第68回NHK杯1回戦第11局
2018年6月10日放映

 

先手 井上 慶太 九段
後手 糸谷 哲郎 八段

 

本局の棋譜は、こちらのサイトからご覧いただけます。
参考 本局の棋譜NHK杯将棋トーナメント

前回の続きです。

なお、本局の棋譜は、こちらのサイトからご覧いただけます。

 

この局面の状況を、簡単に説明しておきましょう。

現状、駒の損得は五分ですが、先手は▲9一角成や▲4三歩成などで確実に戦力を補充することができるので、実質的には後手は駒損しています。この実質的な駒損が現実的な駒損に変貌すると、大いに形勢が離れてしまうと言っても過言ではありません。つまり、後手は非常に焦らされている局面なのです。銀冠の堅さが残っている間に、何か手を捻り出さなければいけません。

ひとまず、△8六歩(青字は本譜の指し手)は叩いておきたいところです。玉では取れませんし、金で取ると逃げ道が塞がります。よって、▲8八金は妥当ですが、そこで△5七歩が覚悟を決めた一着でした。(第12図)

 

先述したように、後手はせわしない状況に追い込まれているのですが、そんな中でじっと歩を垂らす手を選択されたことは驚きです。ぱっと見では間に合わないように感じるところなので、おそらくこの手を指すのは葛藤があったと思われるのですが、亀の歩みに希望を託したことに凄みを感じます。

さて。この△5七歩に対し、井上九段は▲7四歩と上部を開拓しに行きましたが、少しもったいなかったでしょうか。代えて、▲4三歩成△同金直▲4八歩が優ったように思います。(A図)

 

▲4八歩で竜の居場所を打診する手が急所で、後手は適切な対応がありません。△同竜は▲2六角がありますし、他の逃げ場では先手玉への脅威が和らいでしまいます。一旦、竜をどこかに追いやってから▲1一角成としておけば、攻め合い勝ちが望めたでしょう。

 

本譜に戻ります。(第12図)

 

本譜の▲7四歩も負けにくい一手ではありますが、これは△5七歩に歩調を合わせているようなところもあるので、後手はこの垂れ歩が取り残されるような展開にはならなくなりました。

▲7四歩以下、△5八歩成▲7三歩成△5二飛▲6三角△7三桂▲同角成△2二玉と進みましたが、こうなると△5七とが間に合いそうな状況になっているので、△5七歩と打った甲斐があったと言えるでしょう。(第13図)

 

先手はどこに目を向けるべきなのか難しい局面ですが、井上九段は▲4三歩成△同金左▲4八歩と指しました。やはり、ここに歩を打つ手が急所です。

▲4八歩に△同竜は▲5五馬が王手銀取りですね。糸谷八段は攻め駒を遠ざけないために△6七銀成▲同銀△4八竜と応じましたが、先手は一歩の犠牲で負担になっていた桂を取らせることができました。

井上九段は▲4四歩△3三金寄の利かしを入れてから▲8六玉で拠点を払い、自玉の安全を重視します。以下、△6八と▲5七銀打△3八竜▲6八銀△同竜▲7八金△5九竜▲7九歩で手堅く受けに回りました。最速の勝ちを目指すのではなく、負けにくい形を作ることを優先した方針です。それは第12図で▲7四歩と突いてから、一貫していますね。(第14図)

 

 

後手は先手の空中要塞をいきなり崩すような手段はないので、△5四飛で懸案だった飛車の活用を図ります。大駒の効率を上昇させる手は相当に悪手ならないので、優先度の高い手です。

これに対して、井上九段は▲5五歩で飛車を押さえますが、何気ないようでこの手の罪が重かったように思います。代えて、▲8四歩で上部を厚くする手が魅力的でした。先手は早くこの地点に駒を置きたかったですね。

▲5五歩が芳しくない理由は、△4四飛▲4五歩△4三飛と進んで明らかになります。(第15図)

 

先手は7筋に底歩を打っているので、△7一香が痛打です。したがって、△1九龍で香を補充される手を阻止したいのですが、このとき5五の歩が馬の利きを遮っているおじゃま虫になっているんですね。つまり、先手は自ら不必要な駒を作ってしまったのです。

仕方がないので井上九段は▲5四歩で香を守りましたが、△8四銀が快打。大駒をいじめながら寄せの足場を作れたので、先手玉が見えるようになりました。

△8四銀に▲6四馬と逃げますが、△7五歩▲同銀△8五歩▲同金△同銀▲同角成△7二桂でガリガリと先手の防壁を削っていきます。(第16図)

 

後手からの食い付きを許してしまったので、もう先手は負けない形を作る余裕はありません。このまま一方的に攻め立てられると、先手は自分にターンが回って来ない懸念もあります。そのような背景があったので、井上九段は6四に馬がいることを活かして、▲5五桂△4五飛▲4二馬△同飛▲4三歩と踏み込んでいきます。

しかし、そこで飛車を逃げずに△8四歩が際どい利かし。7五の銀を動かして角のラインを作っておけば、先手の攻めに制約を与えることができるだろうと見た訳です。(第17図)

 

井上九段は素直に▲8四同銀で後手の要求を甘受しましたが、ここはアクセルを踏んだ方針を継続するために、▲4二歩成△8五歩▲8七玉で寄せ合いを挑みたいところでした。(B図)

 

次に▲4三桂成が詰めろになるので、△5五竜で桂を取る手が自然ですが、▲8一飛(または▲7一飛)と攻防手を放って激戦に見えます。

これではっきり先手勝ちとは言い切れませんが、ここで肉薄しないと後手玉を寄せるチャンスがなかったので、先手はこの変化を選ぶべきだったように思います。

本譜に戻ります。(第17図)

実戦は▲8四同銀だったので、糸谷八段は利かしが入ったことに満足して△3二飛から受けに回ります。以下、▲5三歩成△5五龍▲4二歩成△5三龍▲3二と△同金と進みました。先手は飛車を取ったものの、竜を引きつけられてしまったので後手玉が全く見えなくなってしまいました。(第18図)

 

敵玉を寄せるビジョンが見えなくなったので、井上九段は▲6三金△4四竜▲7二金で入玉を目指す方針にシフトします。ただ、第16図では踏み込んで寄せに向かっていたところだけに、この辺りは予定の変更があったのかもしれません。

後手は銀損になりましたが、一方的に攻める態勢を作れたことは大きなアドバンテージ。△7四金▲6四桂△8五金▲同玉で、まずは馬を除去します。(第19図)

 

もう局面は速度計算が関係のない将棋になっています。すなわち、先手の入玉が成功するか否か。その一点に勝敗が懸かっています。

後手は金気を持っていないので寄せの網を絞りづらいのですが、△4七角が面白い攻め方。△6五角成は阻止しなければいけないので、▲7七桂は自然ですが、△7一歩▲同金△3六角成で嫌らしく手を渡します。これが巧みな勝負術でした。(第20図)

 

△3六角成はそれなりに利いてはいますが、正直なところ何を狙っているのかは謎です。しかしながら、実戦ではこういう「くすぐったい」手が有効なんですよね。

明確な狙いを持った手であれば対応は楽なのですが、それが不透明な場合、適切な対処が見えにくいので、どう応じれば良いのか分からないものなのです。例えるなら、寿司屋でスプーンを渡されたような感じでしょうか。

 

先手は入玉を目指しているので、▲8三歩でと金の製造を狙いますが、当然△8一歩で妨害します。この場合、9一の香を守る意味も兼ねているので打ちやすいですね。井上九段は▲7三銀成で上部を厚くしますが、そこで△4八角が玄妙な手渡しでした。(第21図)

 

これも、△3六角成同様、くすぐったい手ですね。利きを止めるだけなら▲6六銀打が一案ですが、自陣に駒が残留するのは入玉との相性が悪いので、気の進まない手でもあります。

なので、井上九段は堂々と▲7四玉と行進しました。しかし、△9三角成▲7二銀△5三竜で包囲網を敷かれると、にわかに先手玉は危うくなりました。(第22図)

 

本音を言えば、ここで先手は▲8五桂と跳ねて後手を催促したいのですが、それには△6二桂▲同成銀△7二馬が峻烈な攻めで、先手玉は寄り筋です。(C図)

 

▲同桂成が最も頑張れますが、△8三竜▲6四玉△5三銀▲5五玉△8五竜で後は一手一手の寄り筋です。手数は掛かりますが、玉型が大差なので逆転の目が乏しいですね。

 

本譜に戻ります。(第22図)

本譜は▲6一飛で6二の地点に利きを増やしましたが、それでも△6二桂が寄せの決め手。先手は飛車を渡すと△7五飛があるので、▲6二同成銀と取るしかありません。以下、△7三歩▲8五玉△7二馬▲同成銀△7五銀で寄り形となりました。(第23図)

 

先手は△8四馬を受けるには▲7六桂と打つしかないですが、△6六歩と平凡に銀を取りに来られて困りました。以下、▲同銀△同銀と進んだ局面で終局となりました。(第24図)

 

△7五馬までの詰めろが掛かっていますが、(1)▲8四金は△同馬以下詰み。(2)▲8四角は△同馬▲同桂△7五銀打で必至。(3)▲8六玉は△7五馬▲8七玉△8六銀から圧し潰されるので、先手は受けがありません。よって、投了はやむなしです。

 

 

本局の総括

 

先手の仕掛けが機敏で、中盤以降はずっと先手ペースで進む。
△5七歩が意表の勝負手。この垂れ歩が間に合ったので、形勢がどんどん混沌としていく。
先手は第16図から方針がブレてしまったのが痛かった。寄せに向かうのなら、C図がラストチャンスだった。
後手は苦しい局面が多かったが、相手に選択肢を多く与えて悪手の種を蒔き続けた姿勢が逆転勝ちに繋がった。

 

それでは、また、ご愛読ありがとうございました!

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